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歴史概観
歴史年表
大公/選帝侯モーリッツ
コーゼル夫人
  歴史上の人物 1 (Personen in der Geschichte)

ザクセン大公/選帝侯モーリッツ(1521年-1553年)
君主の行進の中のモーリッツ
<ドレスデン城の壁に描かれた
君主の行進の中のモーリッツ>
別掲のモーリッツブルク城を最初に造らせたのはザクセン大公モーリッツで、城の名もそれに由来する。
モーリッツはアルベルト系ヴェティン家に選帝侯位をもたらし、アウグスト強大候に代表されるザクセンの繁栄の基礎を築いたという点で、ザクセンの歴史に重要な地位を占める。

27歳で選帝侯位を獲得
ヴェティン家は1089年にマイセン辺境伯の地位を獲得したのを手はじめに、1423年にはザクセン選帝候の地位も獲得し、勢力を拡大していった。その繁栄の中で、3代目の選帝候となった兄エルンストおよび弟の大公アルベルトが領地を共同で統治することにした。
 しかし、2人はまもなく仲たがいし、1485年に分裂して、それまでひとつであったザクセンの領土を分割することになった。これはライプチッヒの分割と呼ばれるところであるが、これによって、エルンストがザクセン選帝候位の基盤を成すSachsen-Wittenberg大公領およびチューリンゲンの一部(現在のザクセンよりも西の方)を支配し、ドレスデンやライプチッヒを含むほぼ現在のザクセンは弟の大公アルベルトが支配することになった。以後、ヴェティン家はエルネスト系とアルベルト系の分かれる。
モーリッツは大公アルベルトの孫で、1521年に生まれ、20歳でザクセン大公の地位に就いた。モーリッツはいわばヴェティン家の中でも分家に生まれたわけであるが、宗教改革に伴う混乱の中で、選帝侯位を本家から奪取したことで、その後のザクセンの歴史において重要な地位を占めることになる。モーリッツブルクが建設されたのは彼が21歳から25歳までの時で、選帝侯位に就いたのは27歳の時であった。歴史書に出てくるクラナッハの肖像画でも老成した人物に見えるが、1553年に没した時はまだ32歳の若さであった。
フライベルク博物館所蔵のモーリッツの絵
<モーリッツ-フライベルク
博物館>
ザクセンの繁栄に大きな力を発揮
ザクセン北部のヴィッテンベルクでルターが始めた宗教改革の動きが帝国の各地に拡がる中で、帝国としてはカトリックを維持しようとする皇帝カールV世(ハプスブルク家)に対して、ザクセンを中心とする改革派の北部諸侯の対立が強まっていった。1530年、改革派はザクセン選帝候ヨハン・フリートリヒ(エルネスト系)およびモーリッツの義父であるヘッセン公フィリップを中心にシュマルカルデン同盟を結び、皇帝側に対抗した。

ヴェティン家のモーリッツももとより熱心な改革派であったが、片や皇帝から帝国の体制維持という大儀への協力を要請されていた。モーリッツは長い間逡巡する。しかし、1546年に皇帝とシュマルカルデン同盟の間でいよいよ戦いが始まり、皇帝が弟の軍隊をザクセン選帝候に立ち向かわせるに及んで、このままでは皇帝(ハプスブルク家)の勢力が一方的にザクセンにまで拡大してしまうと懸念したモーリッツは、逆に皇帝軍に加わる形で、復従兄弟であるザクセン選帝候領へ進軍する。その背景には領地分割後も続くエルネスト系への対抗心もあった。
1547年5月19日、ザクセン選帝候ヨハン・フリートリヒI世は皇帝・モーリッツ軍の前に降伏、選帝候位を放棄する。シュマルカルデン同盟に対する皇帝の勝利である。皇帝側の勝利に功あったモーリッツはその約1ヵ月後にザクセン選帝候として布告され、さらに、翌1548年2月24日、ザクセン選帝候位と結びついたザクセン・ヴィッテンベルク大公領を正式に託され、モーリッツは名実ともにザクセン選帝侯の地位を獲得する。26歳のモーリッツはこれに伴って、エルネスト系のその他の領地や権限の多くを移譲されることになり、以来、ザクセン選帝候位はエルネスト系に代わってアルベルト系が受け継ぎ、後のザクセン王国へと発展していくことになる。

しかし、勝利を得た皇帝が力を増し、諸侯に対する圧力を強めて行くのを見たモーリッツは皇帝側から政策実行のために託されていた資金を使って兵隊を集め、新教諸侯としめし合わせて皇帝を急襲した。モーリッツは皇帝を追い詰め、ついには新教側との妥協(パッサウ協定)を成立させた。これによって皇帝の権威は弱体化し、モーリッツは帝国における地歩を固める。

モーリッツはしかし、新旧妥協に従わないブランデンブルクークルムバッハ辺境伯と戦って勝利するが自らは背中を撃たれて斃れてしまう。
 モーリッツの棺
<フライベルクのドームに安置
されているモーリッツの棺>
 内政にも実績
このような経緯からモーリッツについては自分の利益のためなら何度でも寝返りを打って平然としている日和見主義者と見る向きもある。一方では、モーリッツはハプスブルク家の皇帝カールⅤ世が北部諸侯の間に進展する改革の動きを無視し、弟フェルディナントだけでなく姻戚のスペインの軍隊を頼りに「非ドイツ的」政策を強行しようとしたことに対して現実的な対応をしたにすぎないともいえる。ルネッサンス時代の諸侯の行動様式のひとつの典型であったというものである。短い治世の間に内政面では税、鉱山、行政のみならず教育の面でも改革を進め、ドレスデンやライプチッヒの防備を固めるなど、ザクセンにとっては歴史上の偉大な人物の一人であったといえる。
モーリッツの墓はFreibergのドームにあり、ヴェティン家一族の中でも最も立派なものといわれる。
 フライベルクのドーム広場
<モーリッツが生まれ、安置されているフライベルクのドーム広場-
フライベルクは銀鉱山で発展した>
 
-- ドレスデン情報ファイル 2007.04.02--