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ドレスデン情報ファイル

ザクセンとドレスデンの歴史

はじめに

行く道が高台にさしかかれば、視界をさえぎるものもなく、緑豊かな丘陵がはるかな彼方まで連なり、やがてはたなびく白雲とまざりあうのどかなザクセンの風景。ザクセンの歴史はその風景と同じように起伏に富み、変化に彩られている。そこではドイツの中でも特筆される文化と芸術が栄え、新しい産業が生まれてきた。しかし、豊かであったがためにかえって周辺の列強の間に立って苦難を味わうこともあった。
近世以降、ザクセンはドイツの中の主要な領邦さらには王国のひとつとして、ドイツの産業においても重要な地位を占めていた。しかし、第2次大戦では首都ドレスデンが壊滅的な打撃を受け、その後は旧東ドイツの1地方に過ぎなくなった。そうした中、1980年代末にはライプチッヒやドレスデンで高まった民主化運動が発端となって東西ドイツの統合が実現した。さらに、統合後は伝統的な産業基盤をねらって国内外から多くの先端企業が進出する一方、歴史的な文化資産の修復が進み、ドイツの中で最もダイナミックな州と評されるに至っている。


<バウツェンの中心街>
ザクセン州東部にあり、スラブ系の人口が多い。

「ザクセン」の誕生
ドレスデンを中心にして西に位置するマイセンから東側のピルナにかけたエルベ川一帯にはすでに旧石器時代から人類が住み、最近に至っても当時の痕跡が新たに発見されることがある。
ゲルマン民族が西方に移動した後の7世紀になるとスラブの血筋を引くソルブ系などの民族がこの地域に移り住むようになった。
この間、911年に東フランクのカロリング王朝が断絶し、ドイツ諸部族がフランケンのコンラート公を国王に選任し、ドイツ国家が一応の誕生をみたが、これを実質的な統一国家としたのはコンラートI世の死後国王に就いたザクセン大公ハインリッヒI世であった。


<ハインリヒI世と妃マチルデ>

ザクセン族は現在のニーダーザクセン州を中心とする北ドイツ一帯を占めていたが、ハインリヒI世はマジャール人の侵攻に対抗して東方のスラブ人地域に進出、その一環として929年にマイセンに城砦を構築した。マイセンの城砦は東方地域の中で次第に中心的なものとなり、ハインリヒI世の子オットーI世(大帝)はここを拠点とする辺境地(Mark Meissen)を定め、辺境伯を置いた。このあたりに現在のザクセン州の発端がある。
マイセン辺境地は1089年に、この地域で勢力を伸ばしていたヴェッティン家に授封れ、同家は正式にマイセン辺境伯の地位を得た。ヴェッティン家は銀の発見などにも支えられながらこの地方で勢力の拡大を続け、1423年には後継者のいなかった北方のザクセン・ヴィテンベルク選帝侯の地位を獲得した。その結果、この地域はザクセン選帝侯領、ザクセン王国、ザクセン州というザクセンの名称で呼ばれることになった。したがって、現在の州名もゲルマンの部族であるザクセンと特に関係があるわけではない。民族としてのザクセンは今もドイツ北部にあるが、そちらは現在はニーダーザクセン(低地ザクセン)などとなっている。ヴェティン家はザクセン選帝侯、さらにはザクセン国王として800年にわたってザクセンを支配していくことになる。


<オットー大帝と妃エディータと伝えられる像-1250年>
マクデブルク大聖堂

ドレスデンの発展
現在ドレスデンとなっている地域がザクセンの領地となったのは1143年であるが、ドレスデンという地名は当時この一帯に住んでいたスラブ人がDrezdanyと呼んでいた村の名前に由来する。

ドイツが領土を東に拡大させ、エルツ山地で銀が発見されるに伴ない、エルベ川周辺地域は重要性を増した。「ドレスデン」の名が記された最も古い文書は1206年*)のもので、1216年の記録ではドレスデンが初めて「市」と呼ばれた。移り住んできたドイツ人はスラブ人が住んでいた村に近いTaschenbergで計画的な都市づくりを行なった。1275年には対岸のNisan村、後のAlten-Dresdenへわたる橋が建設された。(*2006年、800年祭の盛大な催しが開かれた。)


<大公アルプレヒト>
本拠をマイセンからドレスデンへ移した

ドレスデンは15世紀の終わりまでは人口6,000人程度でしかなかったが、その後転機を迎えることになる。ヴェッティン家はすでに年にザクセン選帝侯の地位を獲得して広大な地域を支配していたが、同家で内紛が起こり、領地が分割されることになった。1485年に兄の選帝侯エルンストがWittenberg地域とチューリンゲンの大部分を所有し、弟の大公アルプレヒトがほぼ現在のザクセン州に相当するマイセン辺境地、ライプチッヒ地方およびチューリンゲン北部を治めることになった。
そして、アルプレヒトは居城をドレスデンに置いたのである。以来この居城所在地は100年間に渡って繁栄し、人口も2倍以上に増加した。1547年にはアルブレヒトの孫モーリッツ大公がいわば本家のエルンスト系から選帝侯の地位を奪取し、城砦が改修、拡張され、ルネッサンス風の豪華な宮殿に変わっていった。古い城壁も壊され、あらたに街を囲む壁や稜堡が設けられ、工芸や文化が栄えた。


<アウグスト強王>

アウグスト強王の時代
この繁栄は30年戦争(1618年-48年)により中断するところとなったが、ザクセンは立ち直るのが比較的早く、1694年にはフリートリヒ・アウグストI世すなわちアウグスト強王が選帝公となり、後にアウグストII世としてポーランド王をも兼ねることになる。ここに「アウグストゥス時代」と呼ばれ繁栄の時代を迎える。

アウグスト強王は生産活動を奨励し、手工業や商業を優遇する政策を実施、道路建設を進めた。その結果、経済・産業は繁栄し、国には大きな歳入ができた。こうした資金をもとにドレスデンをルネッサンス様式の町からバロック様式中心の町へと変えていく施策がとられた。アウグスト強王はマテウス・ダニエル・ポッペルマン、ツァハリアス・ロンゲルーネなどすぐれた建築家を呼び寄せた。主な事業としてはツヴィンガーの建設のほか宮殿、庭園、貴族の館、そして、市民の住居の建設があった。しかし、もっとも大きかったのはドレスデン旧市街の変化で、アウグスト強王は1685年に火災に遭っていたこの地域を新市街として再建させたのである。強王は工芸と文化に格別の関心をもち、絵画アカデミー(Malerakademie,)の設置(1705年)、絵画ギャラリー(Gemaeldegallerie in Stallhof)の建設(1722年)、緑のドーム(Gruenes Gewoelbe)の開設(1723/30年)などを進めた。

こうして市街は急速に手狭になっていった。1699年から1727年の間に人口は2万1,000人から4万6,000人に急増したが、強王が壮大な事業の資金を調達するために市民に対して重税を課したため、貧困や悲惨な生活も増していった。アウグストはポーランド王として何度か戦争をして、負けていたが、それらの戦費も大きな負担であった。しかし、この間にも、1708年にヨハン・フリートリヒ・ベトガーが「白い黄金すなわちマイセンの磁器」を発明していたことは幸運で、マイセン陶磁器工場は1710年以降国の財政に大きく寄与するところとなった。

アウグスト強王にまつわる人物としてコーゼル夫人がいる。多才な夫人は強王にも大きな影響を及ぼし、ドレスデンの歴史上の人物として各所に名をとどめているが、悲哀の中で一生を終る。


<カナレットのドレスデン>
1784年

アウグスト強王は1733年に没したが、息子フリートリッヒ・アウグストII世の代になっても多くの市民が悲惨な生活を強いられた。この国王は美術品の収集に熱中し、アルテ・マイスター収蔵の高価な絵画はいずれもこの国王がドレスデンに集めたものである。アウグストII世は宮廷画家としてベルナルド・ボレット(Bernardo Bollotto)、別名カナレットをドレスデンに呼び寄せた。そのカナレットはドレスデンの様子を多くの絵画に残している。

王朝の衰退と産業の興隆
アウグスト時代と呼ばれるこの時代は7年戦争(1756‐1763年)により、60年で終わりを告げる。この戦争中の1760年、ドレスデンはプロイセンの攻撃を受け、破壊され、占領され、人口の3分の1が失われた。この戦争で勝利したプロイセンのフリートリッヒ大王はザクセンを占領こそしなかったものの、一般民衆を含むザクセン国民から過酷な賦課金を徴収し、これが後世に至るまでザクセンとプロイセンの関係に影を落とすことになった。フリートリヒ・アウグストII世は1763年に没し、ポーランド国王の地位も失われた。

1815年のウイーン会議によってザクセンは領土の半分を失い、政治的力を全く失ってしまった。ドレスデンではまず1790年にはじめて、そして1848‐49年にも市民が身分制国家に反対してバリケードをもって立ち上がった。同時にドレスデンは産業の中心地として発展し、1852年から1895年の間に人口は10万人から33万6,000人に増加した。ゼンパー・オペラ劇場(Semperoper)、芸術アカデミー(Kunstakademie)、展示館(Ausstellungspalast)が建設されたのはこの頃で、新マルクト広場(Neumarkt)の厩舎(Stallgebaeude=Johanneum)、武器庫(Zeughaus=Albertinum)、城などの改修が行なわれた。


<法学者の王ヨハン>
ゼンパーオペラの前に立つ

1918年11月13日、国民的なフリートリヒ・アウグストIII世が退位して、ザクセンの王制は終焉する。

第2次大戦による破壊、東独時代、そして。再建へ
ドイツ帝国の時代、ドレスデンは63万人(1939年)の人口を擁し、ドイツでもっとも重要な都市のひとつであったが、1945年2月13日-14日に米英軍の激しい空爆によって壊滅的な被害を受け、数万といわれる犠牲者が出た。

東ドイツの時代にはドレスデンは当初は州首都であったが、1952年には東ドイツ15地区のうちの1地区の首都となった。自動車時代の社会主義的大都市として大通りや行進のための広場が設けられ、歴史的な市の姿に大きな変更が加えられた。歴史的な建物の中ではツヴィンガー宮とゼンパーオペラだけが代表として維持されたにとどまった。


<再建中の聖母教会>
2004年

ドレスデンは平和的革命の中心のひとつであった。1989年10月3日および4日の夜、避難者をプラハから西側へ運ぶ列車に何百人もの人々が飛び乗ろうとした際、社会主義統一党政権がこれを力で抑止しようとして流血の衝突が生じ、中央駅は大きく破壊され、何百人もの民衆が血を流し、逮捕された。その後、何千人もの市民が街に出て、民主的な基本権を求めてデモ行進した。そして10月9日、彼らは目的のひとつを達し、市の指導部が抗議する市民の代表「20人グループ」との対話を開始した。その後1ヵ月して東西ドイツの「壁」が崩れ、さらに1年後の1990年10月14日には初めて民主的な市議会選挙が行なわれた。

2021.01.15