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   聖母教会 (Frauenkirche zu Dresden)
完成した聖母教会。白い部分は新しい石で作られている。ルター派プロテスタント教会
1726年に建設が開始され、1743年に完成。
1945年2月13日のドレスデン大空襲と火災で崩壊。1996年から再建が始められ、2004年7月、建物の外部が完成、2005年10月30日には内部を含む全てが完成した教会の完成を祝う式典が行なわれた。

歴 史
ドレスデンの中心にあたる現在の聖母教会の位置にはすでに11世紀から教会が立っていたとみられている。周辺のスラブ民族への布教が主な役割のひとつで、この教会はその後何度も改修されてきた。教会は聖母マリアを讃えて"Zu unser lieben Frauen" (「わが慈しみの女性の」の意)の名称で呼ばれ、現在の"Frauenkirche"(婦人=聖母教会)の基になっている。
18世紀に至ってこの教会が手狭になったきたため、市参事会が1722年に新たな教会の建設を決定し、任命を受けたた建築監ゲオルク・ベーアが4年の歳月をかけて設計した。
ベーアは基礎から最先端まであたかも一塊の石で造られたかのごとくで、かつ壮大な建造物をめざした。とくに、中央のドームは石造建築物の傑作といわれ、バロック様式のプロテスタント教会としてヨーロッパを代表する建築物となった。                                 
<上:蘇った聖母教会>

一部の壁を残して瓦礫と化した教会。手前はルター像。爆撃後の火災による崩壊
第2次大戦末期の1945年2月13日と14日、連合軍によるドレスデン大空襲によって損傷を受け、さらに内部の火災で支柱が燃え、建物の膨大な重量を支えきれなくなり、2日後の2月15日午前10時ころ東側と北西部の壁の一部を残してほぼ全体が崩壊した。

戦後の旧東ドイツの時代は残った瓦礫の山が記念碑としてそのまま残されていたが、1982年以降は毎年2月13日に平和を祈る若者達が集まってろうそくの灯を捧げるようになり、ドレスデンの平和運動を象徴する場所となった。
  
<残された瓦礫の山>撮影:1985年4月6日

瓦礫を集めて再建
再建の動きは戦後間もない時期からあったが、政治的・資金的問題から実現には至らず、東西ドイツの統合で初めてこの歴史的遺産の再建の実現性が高まり、1991年に民間人のイニシアティブで再建の決議が行われ、ドレスデン市も再建に資金的支援を行なうことを決定した。新しく鋳造された鐘

1994年に礎石が置かれた後、1996年に工事が開始された。作業は瓦礫の山となった石材を拾い出し、、寸法をはかり、形状を確認し、分類して整理保管することから始まった。多くの石材は瓦礫の中の位置から使われていた場所が割り出され、再建に使われたが、使用できない石材も多く、かなりの部分は新しい石材が使われた。このため、再建された建物は黒くなった古い石材と明るい色の新しい石材が混ざってまだら模様をなしているが、歳月とともに全体が黒ずんだ重みをおびてくると見られる。
鐘は8個(8口)あり、うち7個は新たに鋳造されたもので
あるが、1個は1518年に鋳造されたものである。          
  <取り付けを待つ新らしい鐘>
 
照明される完成の夜の教会 再建に要した費用は1億3,200万ユーロで、そのうち1億ユーロが寄付によるものであった。おおぜいの人々の協力のもとで10年以上の歳月をかけて再建された聖母教会は文化の中心として栄えたドレスデンの再興を象徴する建造物となっている。
再建後の聖母教会を一目見ようと訪れる人は多く、2008年3月下旬には500万人に達した。コンサートや講演会、見学などを目的とする人が75%で、ミサのために訪れる人は25%であった。


     <完成を祝う夜>
落成式の様子
1994年に開始されたドレスデンの聖母教会(フラウエンキルへ)の再建事業が完了し、2005年10月30日、新しい建物や設備を神聖化するための儀式(Weihe)が行なわれた。
1945年2月の爆撃によって廃墟と化した教会はここに再生し、早速記念のコンサートや一般公開が開始された。
以下はこの日の教会とその周辺のひとコマ。(→教会内部へ

<式典に集まった人々>


<内部の様子は大型画面に写しだされた。

 

<プログラムを配る女学生>
 
 教会内部へ→  
   -- ドレスデン情報ファイル 2005.11.03