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      地下に埋められた防衛施設とドレスデンで最も古いバロック建築
昔、ドレスデンの町を囲んでいた重厚な城壁の下部に設けられた地下壕(防衛施設)で、ドレスデンで最も古い、ルネッサンス時代の建造物です。ブリュールのテラスの下にあり、川側からも射撃用の穴などが見えます。
施設の内部は想像以上に大きく、アーチ型の天井の部屋や通路が入り組み、弓や火器の発射施設、食料や武器・弾薬の貯蔵庫、兵士の避難場所などを備えています。
この地下壕には、Ziegeltor(れんが門)と呼ばれていた楼門も収まっています。これは町の北側にあった大きな門で、それに付属する監視所や検問所、兵士詰め所、堀を渡るための橋、通行を遮断するための落下式の柵などがあります。この門は16世紀の末
に城壁が拡張された際、地下壕の一部として利用するために城壁の下に埋め立てられたものです。その上には後年、ブリュールのテラス・庭園が設けられました。しかし、それがかえって幸いし、19世紀はじめに城壁や市内に通じる門がすべて取り払われた際にもこのれんが門だけは撤去を免れました。5つほどあったといわれる市門の中で現存する唯一のものとなっています。
地下壕とZiegektorは1991年から発掘、整備が行われ、現在は博物館になっています。

入り口は少しわかりにくいですが、聖母教会の脇の道(川側)を少し行った左側にあるGeorg-Treu-Platzの石段の下にあります。
城塞都市ドレスデン

ドレスデンはその昔、他の多くのヨーロッパの町と同様に周囲を城壁と濠で囲まれた城塞都市でした。しかし、城壁は19世紀のはじめに解体されてしまい、その名残はブリュールのテラスとツビンガー宮殿の濠などごく一部で見られるのみとなりました。
最初に壁が造られ、その周りに濠がめぐらされたのは「ドレスデン」の名が初めて文書に残された13世紀のはじめだとみられています。当初は城とオペラの間のSophienstrasse、Postplatz、Wallstrasse、Doktor-Kuelz-Ring、市庁舎、Augustusstrasseを結んだあたりにあり、端から端まで数百メートルほどに過ぎず、聖母教会は壁の外側になっていました。
その頃、ドイツでは皇帝の権威が弱まる一方、各地の領邦が勢力を増していました。
そのひとつであるザクセンは銀の発見などもあって豊かになり、商業都市ドレスデンが果たす経済的役割もますます重要になっていきました。とくに、15世紀後半、ザクセンの分割によってマイセンや銀鉱山の
フライベルクなどザクセンの東半分を支配する領主と なった大公アルベルトがドレスデンを居住地と定めて以降、町は飛躍的に発展して、それまでの防壁では手狭になってきました。また、町が大火に遭い、再建が必要な情勢にもなってきました。このため、16世紀に入って城壁が北東方向および北西方向へ広げられ、同時に壁の厚さを大幅に拡大するなど、防衛機能が強化されました。これは当時すでに神聖ローマ帝国の選帝侯として権勢を高めていた領主の宮廷都市(Residenzstadt)として威容を示そうとするものでもありました。
しかし、時代を経て、強力な武器が現れると、強固な防壁ももはやその用をなさず、壁は無用の長物と化していきました。また、町自体がその境界を越えて広がり、出入り口の少ない壁が周辺に発展してきた町との交通に邪魔になるようにもなりました。こうして、1809年には壁をすべて解体し、空いた土地の有効活用を図ることが決定されました。したがって、今では防壁の名残はほとんど見られなくなってしまいました。


<北門(Ziegeltor=れんが門)>


<地下壕の内部>
   
   
   -- ドレスデン情報ファイル 2008.03.15 --